そう45号発刊 [出版]

そう45号を発刊した。
今号のキーワードは「千」

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いつものことながら
駄文を幾つか載せた。
その中から二つ紹介させていただく。

その1
特集が [千]なので
いささか強引に「木漏れ日茶会」と
土染めの茶室を千利休と結びつけ

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侘び茶は利休に始まり
堕落の兆しも利休から

千で最初に思い浮かべたのは、千利休である。利休は侘び茶の完成者として知られる。
 「侘び」とは「不完全な状態」である。転じて「粗末な様子」や「簡素な様子」を意味し、言葉だけなら「貧しい様」となる。しかし、それを「清貧」と記せば、そこには、最上の美しさが秘められている。そのことを、先人たちは本能的に知っていた。それが、質素や謙遜の中に美を感じとる、日本人特有の「侘び」という美意識なのである。
 利休の高弟、山上宗二は「侘び茶人」とは「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」と記している。胸の覚悟とは、茶に生きる「覚悟」。作分は「美意識」。そして、手柄は「確かな工夫」とでも考えればよいだろう。それ以外、一物も「侘び茶人」には必要ないという諫めだ。
 やがて「侘び茶」という言葉が生まれる。高価な本場中国の茶器「唐物」を尊ぶ風潮に対して、茶室は民家を摸して、粗末な土壁には藁すさが露出した。利休は三畳、二畳の茶室に、躙り口や下地窓、五(四)尺床などを取り入れた草庵茶室を創出し、瓦職人だった長次郎を指導して制作した楽茶碗や、竹の花入を使用する。そのような態度は、後に柳宗悦によって始められ、日常雑器に新たな美を見出した「民芸」の思想にも、一脈通じるとされる。
しかし、柳は、そのような評価を喜んではいない。利休は権門に使え、利用して、「茶」を広め、また「茶」を利用して、権門を操った。柳は、そこに不純なものを見出し〈かかる「茶」は「民衆の茶」では決してなかった。〉〈「侘び茶」とはいうが、一種の贅沢な「茶」で、富や権力にものをいわせた。〉〈権勢と結びつく因縁を持った「茶」は本質的な「侘び茶」になれるであろうか。〉と、疑問を投げかけ〈そこに早くも「茶」の堕落が兆した。〉〈そういう利休のような人間になりたくない。〉とまで断じている。後年、茶聖と称せられるが、柳宗悦に言わせれば「聖」の字には、到底値しないということだろう。
 写真は、茶に生きる覚悟など、もとさら持ち合わせず、自画自賛の美意識と根拠の無い自信に裏付けられ、唯一「貧乏」という言葉が相応しい「門外漢」が主催した「木漏れ日茶会」の土染めの茶室。[穹]愛知ノートバージョン。
(茶会詳細は一四二頁の「編集長の周辺」に掲載。)

その2
書体デザインを通じて知った
錯視から見た「千木」について

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鎮守の杜の美しさに
欠かせないものがある

神社などの屋根の両端で交差する部材のことを千木と呼ぶ。古くは上流階級の邸宅にも用いられたが、現在は、主に神社で用いられている。古代、小屋組の際に木材二本を交差させて結び、先端を切り揃えずにそのままにした名残りとされ、本来の目的は建物の補強だったと考えられている。
 しかし、私はそれとは違う考えを持っている。古くからの日本の建築では、棟の両端に、必ず、その部分を強調する部材が用いられている。それが寺院ならば、「鴟尾」と呼ばれ、城郭ならば、そこには「鯱」が載る。鯱は一種の鬼瓦で、和式建築物の棟の端などに厄除けと装飾を兼ねて設置された。
何故、棟の両端には、そのような装飾が必要となったのか。それは、棟に何も処置せずに水平に仕上げると、錯視により、棟の両端が下がって見え、だらしない建築になってしまう。そのため、富と権威の象徴である建築物を立派に見せるため、棟の装飾は発展した。
 それに対して、安土桃山時代の茶人たちは格式ばった意匠や豪華な装飾をきらい、数寄屋造りが生まれる。それでも、その棟には、最小限の大きさに留まってはいるが、鬼瓦は残る。
 装飾とは、錯視が起きる部所に、それを修正するために施されることが多い、と私は考えている。棟の装飾は記した通りだが、女性の衣装で使用される肩パットも同様な理由で用いられる。それは、なで肩のラインを修正し、キリリとした女性美を演出するために考えだされたデザインなのである。
千木の先端を地面に対して水平に切り落とすことを「内削ぎ」と呼び、反対に垂直に断つことを「外削ぎ」と呼んでいる。「外削ぎ」は、出雲大社を始めとした、男神の神社で用いられ、女神の場合は「削ぎ」が用いられることが多い。しかし、伊勢神宮では内宮外宮共に女神だが、内宮は「内削ぎ」、外宮は「外削ぎ」となっている。理由には諸説ある。後から、無理やり理由付けしたような説が多く、納得しがたいが、神社に参拝し感じる、そこに漂う、凛とした美しさに千木は欠かせない役目を果し続けている。


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詳細は
そう第45号/特集 [千]



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「そう」43号  発刊 [出版]

そう43号」 が発刊になった。

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今回のキーワードは「金」

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キーワードの拙文は

金を求めて男は
山を歩き、川に入る

「そう」の取材エリアの内、西遠・南信に比べて、東西三河は「金」の付く地名が圧倒的に多い。因みに、東三河に六十、西三河に六十五の金地名がある。(Mapion検索)対して、西遠は二、南信では一地区と、殆ど見いだせない。
 三河は金に縁のある地区なのだと、ぬか喜びは早い。金のつく地名が、そのまま黄金としての金に由来するわけではない。金の文字は、黄金の意味の他、銀銅鉄鉛など、金属の総称でもある。同じ金山でも、金を産出する金山と鉄山としての金山がある。
 確かなのは「愛知県北設楽郡設楽町津具金山」。武田信玄が砂金を発見したとされ、「信玄坑」と呼ばれる坑道跡が今も残る。昭和九年には津具金山株式会社が設立され、同三十二年に閉山されたが、閉山は採算の問題で、必ずしも資源が枯渇したわけではない。近くの河床では、根気さえあれば、今でも砂金が見つかるという。
津具金山を取り巻く山々から流れ出た水は大入川となり、豊根村で古真立川を合流し、浜松市天竜区佐久間町浦川で天竜川支流の振草川に注いでいる。
 天竜川の支流、大入川と振草川を一本の樹木に例え、その枝々に咲いた花の如き観があると沿岸二十三ヵ所(昭和五年当時、現在十五ヵ所で開催)の「花祭り」を詳細に紹介したのは早川考太郎だった。
 「花祭り」は修験者が伝えたとされる。修験者は求道者と鉱山師の二つの顔を持っていた。山を歩き、修行を重ね、村々に布教をしながら、金や水銀を求めたという。津具にも「花祭り」があり、他の幾つかの花祭りの里にも金地名を見つけることができる。
 大入川の「にゅう」は空海を高野山に導いたとされる「丹生都比売」につながる。「丹生」は「辰砂」のこと。「辰砂」は水銀の原料である。金のあるところには必ず水銀があるという。
 こじつけ次いでに、砂金取りの技法の一つ「草根引き」、これは、草の根の泥に止まった砂金を川の水で洗い落として砂金を採取する。つまり、振草である。

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 大入川と振草川の沿岸の村々に「花祭り」を伝えた修験者たちが、金地名を残していったと考えるのは、金に取りつかれがちな人間の妄想ではあるが、罪もなく、夢がある妄想といえなくもない。



いつかは千金を獲得したいと言いつつ
そんなことは、口先だけで
夢に見ることもできない男の戯言である。


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「そう」42号 [出版]

長い長いごぶさただった… 
ようだ…
忙しかったわけではない。
時間はたっぷりあった(筈)だ…

それが証拠に
ただ暇つぶしにしか価値のないような
文庫本の時代小説を
日に4冊も読み続けた日々もそのなかには
しっかりふくまれている。

その上、とうとうというか、晴れてというべきか
その間に、65歳になってしまった。
つまり、高齢者の仲間入りということだ。

「そう」の42号も出た。

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この号はキーワードが「文」であったため
文字について書く必要があり、
小さなコラムを含めて11本も担当してしまった。
それなのに、執筆には三日しか余裕がなかった。
重ねてだが、忙しかったわけではない。

これでは、引退間近の高齢者ではなく
過酷な「老働者」ではないかと思うのだが
周りの若者たちは、
自業自得と(冷たく)相手にもしてくれぬ…

以下は、巻末の編集後記ならぬ「街頭録音」の一席

「今年2月に65になる。
本号が届く頃には、晴れて高齢者の仲間入りである。
数年前、新城市湯谷温泉近くの宇連川沿いに僅かばかりの土地を手にいれた。
荒れた土地を整備し、小屋は自力で改装。
ゆっくりと里山の生活を楽しみだしている。
木炭窯でぐい呑みを焼いたり、野草料理の会を催し、現代美術展も開催した。
昨今、我々の周りには、過疎、少子化、高齢化、地域経済の崩壊、
原発事故、グローバル化への疑問や反省と、否定的な言葉ばかりが飛び交っている。
しかし、嘆いていても何も始まらない。
例えば、先の「湯谷の家」。
過疎故に私ごときが手にいれ、新たな活動の拠点が生まれたのである。
求められているのは発想の変換なのだ。」
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